手を伸ばした先で全てが壊れる音がした 


 今日は散々な一日だった。メイク中リップはぽっきり折れてしまったし、電車は遅れるし、引き継ぎが上手くいっていなかったせいで思うように仕事が進まなくて結局残業になってしまうし。おまけに最近喧嘩が多くなっていた彼氏からメッセージが入ったかと思えば「別れよう」そのただ一文だけが表示されていて何もこんな日じゃなくったってと理不尽な怒りが湧いた。

「……は」

 気づけば泣きたくないのに涙がぽろぽろ。もう嫌だ。明日休みでよかった。こんな精神状態で仕事なんて出来そうもない。こんな時は気分転換、という気分にもなれず玄関先で踞る。
 今日は寒いから浴槽にたっぷりお湯を張ってゆっくり浸かろう。ちょっとお高いパックも使おう。そう思うのに体は言うことを聞かない。ジーンズに涙のシミがポツポツと広がった。ひとつひとつは大したことじゃないのにどうしようもなく涙が溢れて止まらない。せめて部屋に入らなくてはと足に力を込めるも上手くいかなくて、冷たい床にへたりこんだまま壁にもたれかかった。
 今度はスマホが着信を告げる。こんな時に誰かと思えば泣いている時になんでか必ず電話をくれる幼なじみの名前が滲んだ画面に表示されていた。

『なんだ、また泣いてんのか』
「またって何よ。私だっていつも泣いてるわけじゃないし。ローが電話してくるタイミング悪いだけでしょ」
『随分荒れてんな。タイミング悪いってんなら切るか?』
「嫌、馬鹿」
『そうかよ』
「ねぇ、ロー」
『なんだ』
「…………なんか、疲れた」

 一瞬止まっていた涙がまたボロボロ。疲れたと言葉にすると一気に現実味が増した。肺が圧迫されて喉元に何かがせり上がってくる感覚にスマホを握る手を強めた。

「なにかって、上手く……言葉に出来ないんだけど。色々、さ」

 立てた膝に顔を埋めると更に惨めさが増した。こんな時は一人で負のループに巻き込まれてしまうからローが電話をかけてきてくれて良かった。
 
『なァ』
「んー?」
『今から出てこれるか』
「ええ、今から?」
『十五分後、下まで降りてこい。遅いからな、夜はもっと冷える。なんか羽織って来いよ』
「えっ、ちょっと。ロー!?」
 
 急な今から会うぞ宣言。一人でいるよりずっといいけどあまりに唐突だ。色んな女の子と付き合ってるくせにそういう細やかさが無いのは私が幼なじみで、遠慮し合う関係じゃないからなんだろうか。
 咎めようにも画面は暗転してしまっていて通話が切れたことを物語っている。

「待って、今のでメイク崩れた」

 幼なじみだし、すっぴんなんて何度も見られてるけど、流石に今の私は見苦しい。丁寧に塗ったマスカラが落ちちゃって黒い涙に変わってるし、欲を言えば一日中手直しする間もなかったせいですっかりよれてしまったファンデーションとチークも塗り直したい。あんなに立ち上がるのが億劫だったのが嘘みたいにすんなり足が動いて、大慌てで洗面台に駆け込んだ。涙で流れたメイクを落として軽く直し、きっかり十五分後に家を出た。マンションを駆け下りた先にいる黒の車を背に立つ長身の男性。その男性の視線がこちらを捉えた。

「行くか」
「えと、ロー。どこ行くの?」
「さァ、適当に」
「ドライブ?」
「まァそんなとこだ」

 私がシートベルトを締めたのを確認してからローは静かに車を発進させた。車内には私のお気に入りのアーティストの曲が流れている。ローの好みだっけと驚いて聞くと、たまたまだ、と答えになってるんだかなってないんだか分からない返答が返ってきた。

「ローはさ、今彼女いないの」
「なんで」
「だって、幼なじみとはいえ私と二人でこんな夜に出かけてさ。私は振られちゃったから、いいけど」

 言いながら、また涙が溢れてくる。鞄からハンカチを取り出して目元にあてた。マスカラ塗り直さなくて良かった。これ以上みっともない顔になりたくない。

「んな、一人で泣かせるような男はやめておけ」
「最近は喧嘩ばかりだったけど優しい人だったよ」

 ちらりとこちらを捉えたローの目が細められる。呆れてるのかもしれない。話題を変えようと逡巡して、結果似たような話題を繰り出した。
 
「ローモテるのに続かないよね。理想結構高かったりする?」
「さァな、バカな奴ではある」
「えっ。ローもしかして好きな人いるの? 私の知ってる人?」
「かもな、着いたぞ」

 ローの好きな人について言及しようとしたところで、車を降ろされ、その先の景色に目を奪われた。
 色とりどりの花が咲き誇る公園。この時間はライトアップされていて、更に花を際立たせる。今の時間は営業時間外らしいのだが、知り合いが運営しているとかで特別にいれてもらったらしい。時々ローの人脈が分からないなとぽかんとしてしまった。幼なじみで、昔はなんでも知っていたのに今はローの事何も知らない。医者をやっているのと何故か彼女と長続きしない事だけ知っている。
 センチメンタルな気分に幼なじみの事すら知らない事実が折り重なって、私は自分のことばかりだなと自己嫌悪に押しつぶされそうになる。
 折角連れてきてもらったのに落ち込むのも悪いと、園内を進んだ先でしゃがみこんで花をそっと撫でた。咲き誇る花々を見ているとさっきまでの悲しい気持ちが慰められる気がする。ライトに照らされて華やかさに拍車をかけた花が羨ましかった。

「何があったか知らねェがなまえが馬鹿が付くほど真面目なのは知ってる。問題が起きた時先送りにしないのも、誰であってもしっかり向き合って対応してんのもな。だから、今は忘れろ。最終的にちゃんとしてりゃいい。今までだってそうしてきたんだ。今はただ笑ってろ」

 そう言って隣にしゃがみ込んだローが髪を撫でてくれてまた涙が誘発される。こんな時はいつもそうだ。一晩中ずっと泣いてしまう。それでも嫌な気持ちだけで終わらずに済むのはローのおかげ。ローが幼なじみでいてくれるから、私は明日も笑っていられる。
 涙でぼやけた視界の中、ライトに照らされた花が風に揺れた。

「ローはさ。いつも私が泣いてると電話くれるよね」
「……なんでだろうな、なんか今お前が泣いてんじゃねェかと思っちまうんだ」
「ふふ、なにそれ。幼なじみって、そこまで分かっちゃうの?」
「幼なじみ、ね」

 じゃり、と土を踏む音。一段階トーンの落ちた声が気になってローを見上げた。寂しげに揺れる金の瞳とかち合って動けない。頬に暖かな体温が触れてローと私の影が重なった。





 報われねェ。そんなことは分かってんだ。

「幼なじみとはいえ、私と頻繁に会ってたら彼女嫉妬するんじゃない?」

 そう言われたのはいつだったか。そんなもんいねェ、と否定すればどうやらおれと噂になっているらしい女の名前をなまえは口にした。

「結構、お似合いだと思うけど」

 おれにはお前しか考えられないというのに。平然とした態度におれがどれほど心を揺さぶられているかまるで考えちゃいない。当然だ。おれ達はただの幼なじみで、おれはなまえに男として意識されていない。おれは幼なじみ以外の何者にもなれそうにない。そんなことは随分前から知っている。
 だがそれを理由に諦めたわけではなかった。いつか手に入れるつもりだった。なまえを一番理解し何かあればすぐさま駆けつけてやれるのはおれだけだと自負していた。実際、あの夜もそうだった。なんとなくなまえが気になって電話して外へ連れ出してみれば堰を切ったように泣くからとうとう我慢ならなくなって勢いに任せてキスをした。その場の雰囲気に流されてくれやしないかと一縷の望みもかけて。
 その時の顔を、よく覚えている。照れも狼狽えもなく、ただ呆然とする姿に本格的に脈が無いと悟ったあの夜。密かに願った顔をおれが見ることは叶わないのだと突きつけられた。
 ぽろりと今さっきキスをした可愛らしいと思う口から零れ落ちたのは別の男の名前。おれに誰を重ねているか考えるまでもない。残酷で愛おしい彼女とこれ以上一緒にいたら壊れちまう。
 そう悟り、一言謝って最後の理性をかき集めて無言でなまえを車に押し込み帰路についた。横では呑気にバッグの持ち手を弄りながら「ローは寂しそうな女の子には誰にでもキスしてあげるんだね」とのたまった。
 違ェ。お前だからだ。その訴えが届くことはない。

「……なまえ」

 二度と思い出したくもない夜の出来事を何度思い返せば気が晴れるのか。脈が無いと分かっても女々しく縋り付きたくなる自分に腹が立つ。おれが手を伸ばせば縋り付くくせに落ちないなまえにも。寂しさから彼氏を作るのならおれにすればいい。そうすれば望む時に抱きしめてやって望み通りの言葉を吐き続けてやるのに。馬鹿な女だ。
 けれど本当に馬鹿なのはあの夜、想いを伝えずさっさとなまえを送り返した自分だ。言葉で拒絶されるのを、関係を壊しちまうのを恐れず向き合えば吹っ切れたかもしれない。いや、最初から幼なじみという関係に固執しなければ良かったのだ。
 スマホが震え、普段滅多に表示されない名前がディスプレイに表示される。

「……なんだ」
「ローが……泣いてるんじゃないかと、思って」
「…………」
「ロー、あの時」
「言うな」
「なん……え?」
「なにも、言うな」

 聞きたくない。何を思って電話なんざかけてきやがったのか、あの夜の答えも、何も。

「ロー」
「用件はそれだけか。なら切るぞ」
「ロー、待っ」

 臆病なおれを、笑いたきゃ笑え。どうしたってなまえを手放すなんざ出来そうもないのだからせめて関係を修復するためにも一度頭を冷やさねばと一方的に通話を断ち切ってベッドに寝転がる。
 だがいくら逡巡しても無理だと情けない答えしか浮かんでくれなかった。
 泣いているであろう彼女を慰める口実で会いに行って、彼氏が出来ようがなんだろうが最後にこいつの隣にいるのはおれだと内心ほくそ笑む。
 彼氏が出来れば振られる、を繰り返せばおれしかいないと縋り付いてくれるんじゃねェかと画策したがなまえがこちらを見ることはなく。結局なまえを悪戯に泣かせただけだった。
 呼び鈴が鳴って、ドアの外からか細くおれの名前が聞こえた。なんで会いに来るんだと理不尽な怒りに苛まれる。ドア越しにたどたどしくなまえが言葉を紡いだ。

「ロー、あの、ごめんね。私きっとなにかしちゃったんだよね。ローはいつも泣いてる時慰めてくれるのにいつも私自分のことばっかりで……本当にごめん。でもね、私いつもローに救われてるんだよ。だから、私もローになにか」

 拒絶するつもりがそこに居ると認識した途端、ほぼ無意識の衝動に任せドアを引く。零れそうな程に見開かれた目に映るおれの姿は滑稽でしかなく。

「ロー」

 昔はおれより少し背が高かったのを自慢げにしてたってのに、それが今やすっぽり覆い尽くせちまう。

「いいんだ、もう」
「ロー?」
「しばらく、このまま……」

 視界の端に映るのはなまえが手に持つ近所のスーパーの袋。何か作ってくれるつもりだったんだろうか。散々おれに傷つけられているとも知らずに。

「いた、ね、ロー」

 痛みを訴えて薄らと涙を浮かべる様を見てドアを閉め、そのまま噛み付くようなキスをした。驚き逃げ惑う舌を捕まえる。甘ささえ感じる舌を吸い、歯列を確かめるように口内を犯す。後ずさりしても、閉まったドアに阻まれて叶わずもがく姿が愚かしくも愛おしい。

「お前聞いたよな」
「なに、を」
「好きな女いんのかってよ」
「…………」
「まだ、気づかねェのか?」

 その表情が雄弁に語るのは、おれの想いへの答えだ。残酷だよな。

「ごめんね、私」
「言うなと言ったろ」

 ガサリと音を立て、床に落ちた袋。おれの好物を覚えていて、作ってくれるつもりだったであろうものが中に入っているのが見えた。
 それさえ不快だ。足掻いた所で報われはしないのだから。手料理を作ってくれたとしてそこにおれの求める気持ちはない。ただの幼なじみへの気遣いなんざいらねェんだよ。

「……悪ィな。それでも、離してやれねェんだ」

 震え出す身体を押さえつけ薄手のコートのボタンを乱暴に外して中の服をずらし、鎖骨の下に噛み付いた。あァ、抵抗するなよ。本当に眼中に無ェんだな。おれなんて。
 泣いてる女を慰めてやりゃ落ちると言ったのは誰なんだと思う。全く落ちる気配がないだろう。おれがしたのは悪戯に傷つけて泣かせただけ。

「ロー、もうやめよう? 幼なじみなんだよ? こんなの、幼なじみのすることじゃないよ」
「黙ってろ」

 唇を塞いでやれば今度は涙の味がした。抵抗しておれの腕を掴んでいた指が離れていく。
 ほら、言ったろ? 壊れちまうって。


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